こんにちは、代表の嶋田です。
坂本竜馬
坂本竜馬って聞かれて皆さんは何をした人!!ってすぐ答えられますか??
僕は正直答えられませんでした・・・。
GWに息子に何をしたい??って聞いたら京都にある寺田屋と近江屋に行きたいと言われ行って来ました。
最近凄く息子が歴史の勉強をしてるんですよね。
そして坂本竜馬を今更ですが調べてみました。
簡単に言うと竜馬は江戸幕府を倒すきっかけを作った人です。
当時の幕府は外国の要求を拒否する力も諸藩をまとめる力もありませんでした。
このような幕府では国を守れないと考え、幕府を倒して天皇の下に統一された国家が必要だと考える人が出てきて坂本竜馬もその一人でした。
幕府を倒す為に幕府と対抗できる大きな力を持った薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。
この2つの藩は武力によって幕府を倒そうとしますが龍馬は国内で戦争をしてはいけないと考えていましたので、平和的な倒幕である大政奉還を土佐藩に提案します。
この案は土佐藩から徳川慶喜に進言されて、慶喜もこれを受け入れました。それにより形式上は幕府が消滅しました。そして、龍馬は新政府が進むべき道を船中八策によって示しました。
龍馬がこのような大きな仕事を成し遂げられたのは、他の人と違う点をいくつか持っていたからです。
- 立場の違う人の言うこともしっかりと聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。
- 多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。
- 新しい時代の明確なビジョンを持っていた事です。
- そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことです。
さらに、龍馬は「世界に出たい」という自分の夢に向かって動いた人でもありました。
近江屋事件、近江屋跡地
近江屋(おうみや)は、京都の由緒ある醤油屋である。現在の四条河原町一帯に土地を持っていた名家井口家の井口新助が営んでいた。
以前は旅行代理店(京阪交通社)だったが、現在は回転寿店の前に石碑と案内板が建っています。ここも見にいきましたが、本当に石碑と案内板が建ってるだけです。それでも息子は興味津々!まじまじと見ていて、見終わった頃には満足したようでした。
坂本竜馬の最期の時
坂本龍馬は、京都の近江屋で暗殺されています。慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜に襲撃を受けています。旧暦での11月15日は、龍馬の誕生日でした。 襲撃の後に残された物や、事件についての証言があるにも関わらず、未だに犯人は分かっていません。
11月15日、夕刻に中岡が近江屋を尋ね、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。
刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が2人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説など諸説ある)。
龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。
その後、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで刺客のひとりが「もうよい」と叫んで全員立ち去った。
龍馬は中岡に「慎太、わしは脳をやられちょる。もういかん」と言い絶命した。この日は、奇しくも龍馬33回目の誕生日であった。
中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。
暗殺について、「護衛の山田藤吉は、なぜ客人を疑わずに通したのか」、「龍馬はピストルを持っていたのに、一発も発砲されていない」など、謎が多くあります。
暗殺された時の刀傷の数が、坂本龍馬よりも中岡慎太郎の方が多くあり、有名だった中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないかと言う説もあります。
次は寺田屋の事を書こうと思います。